第3章
御影怜司が部屋を出ていった瞬間、酒井初音の顔からは、さっきまでの楚々とした委屈がすっと消えた。指先で、存在もしない涙を目尻から拭う。
黒く澄んだ杏眼。その奥に映るのは、底なしの冷たさだった。
彼が今すぐ自分を追い出さないのは、まだ使い道があるから。
利用価値がなくなれば――また、行き場のない「厄介者」に戻るだけ。
前世の私は、怖くて彼から逃げた。結婚して一年ほど経って、ようやく彼のほうから少しずつ距離を詰めてきた。
いつ、どうして愛されたのか。しかも、あんなにも深く――私は最後まで知らないままだった。
だから今世は、私から先に近づく。
守って、愛して、絶対に手放さない。
酒井初音は洗面所へ向かい、顔を洗おうとして――鏡の中の自分に固まった。
赤茶けた吹き出物が顔じゅうに広がり、目の下には濃い隈。肌は病的なほど青白い。
造作だけは整っているのに、全身から漂うのは、恨みを煮詰めたような陰気。
「……」
心が折れかける。
――え、待って。さっき私、この顔で御影怜司を口説いたの?
そりゃ捨てられる。
誰が抱きしめたくなるのよ、自己評価だけ高い幽霊女みたいなやつ。
この顔を見ると、嫌でも思い出す。
前世、身代わりで嫁ぐ前夜。長兄・久世哲哉のために金融プランを仕上げようと、五日間徹夜で詰めた。神経は張りつめ、心は薄く脆くなっていった。
吹き出物の原因は別だ。
次兄・久世直哉のために、古い薬の処方を確かめようとして、こっそり自分で試した。材料が合っているか確信が持てず、結局、飲み下して――顔は毒にやられ、赤い腫れが広がった。
思い至った瞬間、酒井初音の指がぎり、と鳴る。冷えた笑いが漏れた。
前世の私は、家族の愛が欲しくて必死に久世家に媚びた。
その結果が、死んで灰になっても、誰ひとり遺体を引き取らない結末。
……馬鹿みたい。
もう二度と、同じ轍は踏まない。
久世家のために、命を削るような真似はしない。
身体は限界を超えていたのだろう。その夜の眠りは浅く、落ち着かなかった。
気づけば日が高い。
酒井初音はようやく眠りを取り戻し、目を開ける。昨夜、電池切れで落ちたまま充電していたスマホを手に取った。
電源を入れると、案の定、通知が洪水のように溜まっている。
すぐに、見慣れた番号から着信。
酒井初音が通話を取ると、相手は開口一番、苛立ちを隠しもしなかった。
「なんでわざと電源切って、逃げてんだよ?」
久世湊。
トップ歌手らしい澄んだ声は、今は濃い不機嫌で濁っている。
「いつになったら美月みたいに、聞き分けよく大局を見られるんだ?」
二言で、笑いそうになった。
「新婚初夜でね。旦那が強すぎて、起き上がれないの」
酒井初音は眉を上げ、杏眼を気だるげに細める。声は冷たく、刺さるほど淡々としていた。
久世湊は眉を寄せる。
酒井初音が御影怜司を受け入れた? あいつ、障害者じゃなかったのか。
しかも、言い返してくる。
だが今はそこじゃない。苛立ちは増し、声が荒くなる。
「いい加減にしろよ! わざとその話で、みんなを不快にさせたいのか?」
酒井初音が美月の身代わりで嫁いだことを、家族だって気まずいと思っている。
それでも、美月を守るにはそれが最善だった――そう自分たちに言い聞かせている。
だからこそ、酒井初音の皮肉が刺さる。久世湊にも、後ろめたさがある。
酒井初音は唇をつり上げた。目は氷のように冷たい。
「嫁いだのは私でしょ。あんたに嫁がせて、寝かせたわけでもないのに、何が不快なの? どんだけ繊細ぶってんの」
あのとき、家族全員が自分を囲んで、頼み込んだ顔を――忘れるわけがない。
父は皺だらけの手で掴んできた。
「初音、美月は心臓が弱い。刺激に耐えられないんだ……頼む。御影家に嫁いでくれ」
母は髪を撫で、帰ってきて初めて与えた温もりを装った。
「初音、あなたに辛い思いをさせてごめんね。でも美月はずっと私のそばで育ったの。障害者に嫁がせるなんて、母親として耐えられない……あなたはお姉ちゃんでしょう? 妹を守る責任があるはずよね?」
その言葉を聞いた瞬間、酒井初音の身体は芯まで冷えた。
――私は迷子になってから、母に愛されたことなんて一度もないのに。
姉だから?
心臓病じゃないから?
だから私が犠牲になって当然?
五人の兄は黙っていた。けれど誰もが、期待の視線だけは向けてきた。
久世美月の代わりに、顔に傷があり障害を負った男へ嫁げ、と。
最後は祖母が杖をつき、膝をつこうとして――逃げ道を塞いだ。
だから私は、ウェディングドレスに袖を通すしかなかった。
今さら、何が「不快」だ。
久世湊はまた言い返され、声の勢いが少し落ちる。
「……とにかく。お前が身代わりで嫁いで不満なのは分かる。でも、美月が兄貴に渡す金融プランのUSBを勝手に持ち出したのは許されない」
「五日も徹夜して作ったんだぞ。断りもなく持っていくのは盗みだ」
「ほんと失望した。外で何を学んできたんだよ……盗みなんて」
語尾が噛みしめるように荒くなる。鉄は熱いうちに打て、と言わんばかりの「叱ってやってる」口調。
酒井初音は冷静に聞いていた。
この展開は、最初から分かっていた。
前世も「USBを盗んだ」と責められた。
けれど美月に泣きつかれ、妹だからと心が揺れて――結局、自分が被った。
でも今世は違う。
どうして私が?
酒井初音は嘲るように笑う。
「……あんた、ほんと馬鹿ね」
ぷつり、と通話を切った。
次の着信が鳴った瞬間、久世湊の番号をブロックする。
そのまま指を止めず、久世家の両親、祖母、五人の兄、久世美月――全員の番号を次々とブロックした。
久世湊は、耳に返ってくる無機質な音に呆然とする。
もう一度かけ直す。だが、すでに拒否されていた。
顔色が、さらに悪くなる。
――
酒井初音は満足してスマホを置き、ふと顔を上げた。
ドアのところに、御影怜司の車椅子が止まっている。
男は長い指で、肘掛けをとん、とん、と気だるげに叩いていた。墨のように深い瞳。
どこまで聞いていたのか、読めない。
「御影さん、おはよ~」
酒井初音はぱっと表情を切り替え、杏眼を三日月にして笑う。眩しいほど明るい笑顔。
――心の中では、小人が大暴れしていた。
聞いてない、聞いてない、聞いてない……!
だが、神様は酒井初音に優しくない。
次の瞬間、低く冷えた声が薄い唇から落ちる。
からかうように艶のある調子で、細い目の奥は陰っていた。
「昨夜、俺が絡みすぎたか?」
その一言で、布団の中の少女は羞恥で足の指がきゅっと縮こまった。
勘弁して……!
「ご……誤解ですってば!」
うう、口が滑っただけじゃない。
……いや、滑らせたのは自分だ。
そもそも、御影怜司と離婚する気なんてない。
いずれは骨の髄まで甘く食べ尽くすつもりで、先に口だけで勝ってみただけ。
本人に聞かれてるのは、さすがに死ぬほど恥ずかしい。
御影怜司の視線が少女をなぞり、口元に冷笑が浮かぶ。
「起き上がれない、だと?」
追撃の一言。
酒井初音は、瀕死の病人みたいにがばっと起き上がった。
ぬくもりの残る布団から抜け出し、白い足を床につけると、とことこと男の前へ行く。
そしてしゃがみ込み、上目遣いで見上げた。
委屈そうで、可哀想で。鼻先は赤く、杏眼は潤んでいる。
迷子の白兎みたいに、甘える声で彼のズボンの裾をきゅっと摘まんだ。
「私、いい子にするから……追い出さないで」
細く柔らかな指先が布越しに触れた瞬間、その感触が肌にまで染み込んでくるみたいで――
昨夜以外、こんな距離で女に触れられたことなどない。
御影怜司の瞳が、ふっと深く沈む。
彼は指一本で、少女の額をぐい、と押し返した。苛立ちを装いながら、どこかぎこちない。
「お前は俺を治せばいい」
「余計なことを――考えるな」
言い方が、妙に不器用だった。
物陰に控える護衛の三村正明は、目を見開く。
――御影社長が、自分から女に触った……?
